― 不安・安心・物語としての「固定」 ―
ここまでの記事では、
青紋を「固定形質」と捉えることへの違和感、
ニジイロクワガタの色や光沢が連続的な現象であること、
そして「安定した起点」や「連続量」という見方について書いてきました。
それでも、多くの場面で私たちはこう言いたくなります。
この形質は固定している。
この血統は安定している。
もうブレないところまで来ている。
今回は、その「言いたくなる気持ち」そのものを少し考えてみます。
「固定」という言葉がもたらす安心感
「固定」という言葉には、どこか安心する響きがあります。
もう変わらない。
予測できる。
失敗しにくい。
ブリードや観察を続けていると、
次はどう出るのか。
方向は合っているのか。
これまでの積み重ねは無駄ではなかったのか。
そんな不安が、どうしてもついて回ります。
その不安に対して、「固定できている」という言葉は、短く、はっきりと、気持ちを落ち着かせてくれます。
固定は「現象」ではなく「区切り」になることがある
ただ、ここで少し立ち止まります。
構造色や光沢のように連続的に変わる現象について、
どこからが固定なのか。
何代続けば固定なのか。
どの程度そろえば固定なのか。
明確な一本線は、実際には引けません。
それでも「固定」という言葉が使われるとき、そこには
ここまで積み上げた。
ここに到達した。
そんな区切りの感覚が含まれているように思います。
固定は、現象の説明というよりも、自分の中で納得するための目印として使われていることがあるのかもしれません。
「まだ固定ではない」と言い続ける難しさ
一方で、
まだ固定とは言えない。
条件次第で変わる可能性がある。
そう言い続けるのは、案外エネルギーが要ります。
説明は長くなり、前提を共有しないと誤解も生まれやすい。
評価もはっきりしません。
だからこそ、「固定した」と一言でまとめたくなる。
それは怠慢というより、不確かさを抱え続けることのしんどさから来る自然な流れなのだと思います。
私が「固定」という言葉を使わない理由
私自身は、青紋や前胸光沢、色味の深まりといった現象について、構造色という性質を踏まえると、そもそも「固定できる対象」として見ていません。
あえて避けているというより、最初からその枠組みで考えていない、という感覚に近いです。
現象を見ていくうちに、固定という言葉がしっくりこなくなった。
それが正直なところです。
変わることを前提に見る、という立場
構造色や光沢は、そろうこともあれば、ずれることもあります。
思っていなかった方向に振れることもあります。
けれど、その振れ方も含めて観察対象だと私は考えています。
だから、
言い切らない。
決め打ちしない。
変化の余地を残す。
それは判断を先送りにしているのではなく、現象の性質に合わせて見方を選んでいるだけ、という感覚です。
固定しないからこそ、見えてくるもの
「固定しない」立場に立つと、微妙な差に目が向きやすくなります。
年ごとの違いも、そのまま受け取れます。
説明や整理も、必要に応じて更新できます。
完成形を先に決めてしまわないことで、変化をノイズとして切り捨てずに済む。
私にとっては、そのほうが観察として自然でした。
フェーズ2のまとめとして
フェーズ2では、光沢や色を連続量として見ること、固定や呼び名が生むズレ、それでも人が固定を求めてしまう心理について考えてきました。
振り返ってみると、「固定」という言葉は、現象を説明するためというより、不確かさに一度区切りをつけるために使われやすい言葉なのかもしれません。
次のフェーズへ
次回は「◯◯の血が出た」という言い方を取り上げます。
便利で分かりやすい一方で、意図せず「固定」や「遺伝様式の断定」のように響いてしまうことがあります。
なぜこの言い回しが誤解を生みやすいのか。
言葉の構造という観点から整理してみたいと思います。
※本記事で使っている用語については、
こちらのページで整理しています。
→ 用語整理ページ
※補足として「累代を重ねれば色は固定できる」という考え方の記事にも追記しました。
